アーティスティック宇品島【日露戦争】 vol2

明治37年,桜の散り終えた4月下旬に日露戦争のため日本は第二軍を派遣します。 

この派遣に森鴎外こと森林太郎は第二軍の軍医部長として出征します。また後に自然主義派の文豪となる田山花袋も,写真班の従軍記者として、赴きました。 

森鴎外
若き日の田山花袋
長沼旅館

鴎外と花袋 

若い花袋は出発前に広島市内大手町の長沼旅館へ鴎外を訪ねています。 

<陣中の鷗外漁史>(田山花袋)から引用 

鷗外氏は、「まァ、ここに来たまへ。花袋君だね、君は?」 この「花袋君だね、君は?」が非常に嬉しかった。鷗外氏の個人主義は、私は昔から好きだが、こういうふうにさっぱりした物に拘泥しない態度は、何とも言われない印象を若い私に与えた・・・・・     そこに三四十分いて、又、戦地でお目にかかりましょうといってわかれた。 

宇品出征のようす(昭和

花袋は1904年(明治37年)4月21日の広島宇品港出航から、鴨緑江、金州、南山、得利寺、蓋平、大石橋、柝木城の激戦地を従軍、同年9月16日の帰国までを記した従軍記録「第二軍従征日記」を記しています。出発の日,宿舎から千田,宇品と通って港まで,道の両側に住民や小学生が日の丸を振って見送るようすが描かれています。 

      

午後3時30分,鴎外と花袋を乗せた第一八幡丸は常陸丸とともに遼東半島へ向け宇品を出港します。 

日清戦争 第2軍出征風景
宇品出航前の第1八幡丸

 

   

第二軍従征日記> (田山花袋)から引用 

「そして、せめては別れ行く本国の見納め!と態々甲板まで出懸けて行つた人もあつたが、船は時の間に、向宇品の山の陰を遶つて、其儘厳島の見える内海へと進んで行つたので、充分に其の宇品の山々と別離を惜しむ暇すら無かつた。自分はそれでも一人甲板に出て見て居つた。別離! 別離!、軍国の別離! 自分の胸は少なからず波立つた。」 

鴎外と賀古 

この日,鴎外の親友である賀古鶴所は宇品で出航を見送っています。 鴎外と賀古は帝国医大の同期であり,寄宿舎では同部屋であったことから鴎外は賀古を生涯の友として信頼しました。賀古も陸軍軍医で後に日本に耳鼻咽喉科学をもたらしました。広島市や呉市の恩賜財団済生会病院の発起人の一人でもあります。 

賀古鶴所
日清戦争 第2軍出征風景

賀古鶴所 

船出する 宇品の島も 霞みけり 遙かに君を 送るにやあらん 

森鷗外 

さらばさらば 宇品島山 なれもまた 相見ん時は いかにかあるべき 

戦地に向かう友人への別離の歌とこれに対する鷗外の返歌です。 

第2軍の遼東半島上陸

花袋は9月16日に宇品に帰って来ています。 鴎外は翌年の1月に帰国しましたが,第二軍は初戦の南山の戦いでは死傷者4,000の損害,奉天でも多数の死傷者を出し苦戦続きでした。 

私が学生の頃に静岡の友人宅を訪問した時,日露戦争に従軍した経験のあるおじいさまが「宇品から出征した。」と懐かしそうにお話してくださいました。戦争と広島の関わりは原爆でしか語られなくなっていますが,宇品の山が最後に見た日本の景色になった若人もたくさんあったということを忘れてはいけません。 

アース・ミュージアム元宇品 自然観察ガイドの会   
坂谷晃