山方出張所

水軍,商業の町であった近江坂本で育った阪本宗味は宇品島に移住後は島民とともに海上流通業(廻船業)に乗り出します。 ​

そして,1672年西回りの航路が整備されて以後,元禄(1700年)の頃には,全島民あげて本格的に廻船業を営みます。

諸国御客船帳

大型の弁財船数隻(観音丸・千歳丸等)など,港としての賑わいも増します。宇品の港が開港したと言えるのはこの頃と言っていいでしょう。

1700年代に入り宇品島では 

広島藩御覚書帖

元禄時代に作成された広島藩御覚書帖には広島藩の主要な港の15か所の中に「宇治名」の名前が見られます。江戸の後期になってくると船舶も大型化して水深の浅い河口の港へは係留が困難になり,より一層水深があり城下に近い宇品の港の重要性が増します。広島藩の地誌で,文政(1825年)に完成

広島市公文書館蔵


沿海諸島より船舶に拠り広島へ運輸せんと欲するものにあっては,必ず宇品島なる山方出張所に廻送し,積載薪○○多寡に拠り,十歩銀の称にて税

芸藩志拾遺​ ※1913年に完成し、藩主家である浅野家に伝わった
安芸藩の日誌(和綴本)

近世の宇品島が広島の重要な外港の一つであり、とくに薪類の集散地で、藩はここに「山方出張所」(拾歩所とも称した)を置いてその流通を掌握していたことなどが知られます。​※10歩(分)は現在でいえば1,500円くらい

 

西北の鼻(暁橋あたり)  ​小深湊​ ~ 中船30艘​
人家の前​プリンス通東側)​ 西泊​ ~ 大船50艘​

文化1804~文政1830には、40戸の戸数    芸藩通志

 

明治初期 83戸

 

 

次の記事

カベチョロ