WEST COAST HISTORY【服部長七】 

広島は広島藩の城下町として栄え,明治初期には国内7番目の人口8万を有する都市に発展していました。近代から都市の発展には海上流通の充実は不可欠なものとなっており,明治期に入ると船舶規模は大きくなり大型帆船や汽船での大量輸送が主流になってきます。しかし,太田川河口は堆積土砂による遠浅で大きな船舶の通行ができないため,大型の近代的な貿易港を整備する必要性がありました。 

明治13年,県令に着任した千田貞暁により港湾計画は勧められましたが,工事費が膨大な金額になり(10万円の予算経費は概算18万円),予算のめどが立ちませんでした。 

千田は,費用削減のため服部長七の人造石工法に着目し彼を招聘します。 

服部長七(1840年~1919年)は明治期の日本の土木技術者で,既存のたたきを改良し自ら編み出した人造石工法(長七たたき)により治水・用水分野の工事において業績を挙げた人物です。 

人造石 

長七たたきの完成は真土(まさつち)を石灰と混ぜて練ったものが水中でも固まることを偶然に発見したことによります。 

明治16年(1883)ころ,宇品港干拓事業のため服部長七が元宇品へ移り住みます。ところが,宇品築港に関しては反対する地域もあり,工事関係者関係施設への抗議,襲撃もあったようです。長七は江村岡の中腹(現在の樹心庵東下辺り)に塀を巡らせた住居を構えこれを防御したと伝えられています。


その当時の長七の行動を伝えるエピソードがあります。 
工事の発注者である広島県は,当初立案されたムルデル案と見積りの安い長七案に相当な開きがあるのを不信に思い,長七に再度の調査を命じました。 
そこで長七が行ったのは,調査と称した宇品島沖での魚釣りでした。調査報告の期限の日,県庁に出頭した長七に対し県側はその無責任な行動を詰問しました。しかし,長七は平然とこう答えました。 

長七 宇品の海の潮流をさぐる

 

「私の釣りの目的は魚ではなく草鞋でした。草鞋が釣れるということは,宇品の海の潮流はさほどではないということです。ムルデル氏は,潮流の強さを読み違えているため,見積りが非常に高くなっているのです。私は工事の予定場所の潮流の方向と緩急を綿密に調査し,改めて自分の案の正しさを確認したのです。」 
千田県令をはじめ県側は,長七の思慮の尋常ではないことに驚愕した,と広島県発行の『千田知事と宇品港』は伝えています。 以降,自然災害に見舞われながら苦難の5年3ヶ月を要し,宇品港は明治22年(1889)11月に完成しました。 

このころ,長七は代金の一部として宇品島の北西 (現在の南区元宇品町・シーサイド病院北側あたり)に6.000余坪の土地を受け取っています。2年後,ここへ住居と事務所・作業場をつくり,東京の本店と行き来しつつ日本中の様々な場所で仕事を行いました。 

写真は現地を南側から撮影していますが,堤防の上に立っているのが服部長七です。長七の自宅は二階建てで,品川弥二郎よって「日月庵」と名付けられていたそうです。画面中央奥に写っているのがその日月庵です。その後請け負う工事が名古屋や関東方面に移ったため同所の操業は中止され,夏場には海水浴場として利用されていました。 

大正11年(1922),服部の土地も含めた周辺の土地5,500坪を株式会社宇品別世界が買収,リゾート施設や別世界海水浴場が造られることになります。 

  引用文献                              
  広島市郷土資料館「宇品港」広島の海の玄関の物語 平成30年     
  岩津天神「服部長七翁物語」 https://www.iwazutenjin.jp/choushichi 
  坂木道光他「元宇品の歴史」 昭和40年代               

アース・ミュージアム元宇品 自然観察ガイドの会  
坂谷 晃 

前の記事

アリグモの観察 其の2

次の記事

宇品島の歳時記(小暑)