住𠮷神社と常夜灯

住𠮷神社と常夜灯
宇品島では元禄(1700年頃)の頃より海上流通の業に本格的に取り組むようになってから,島の長老の間に住吉さんをお祀りしようとの話が持ち上がりました。それぞれ分に応じて浄財を寄進して享保2(1717)年に住吉神社は建立されました。

住𠮷神社
由緒書


   
祭神は相殿神で、底筒男神(そこつつおのかみ),中筒男神(なかつつおのかみ),上筒男神(うわつつのおのかみ)です。海を守る神様として広く海上生活者が尊崇したもので,島民も海上平穏、航海安全、を祈願していました。
【参考】

祭神について
*イザナギノミコトの妻であったイザナミノミコトは国生みの神として様々な神を生みましたが、火の神を生んだときに大火傷を負い,黄泉国(死の世界)に旅立ちました。その後、イザナギは、死んだ妻を黄泉国から引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国のけがれを洗い清める禊を行ないました。このとき、瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされます。

*相殿神について

相殿(あいどの)とは、同じ社殿に2柱以上の神を合わせて祭ることです。同じ神社内に神様がふたり以上いることを意味します。『古事記』によると、大年神(おおとしのかみ)と天知迦流美豆比売神(あまちかるみずひめのかみ)とが婚姻して十人の御子神が生まれた。そのうち,竈の神様(仏教で言うと荒神さん)が奥津彦神(おきつひこのかみ)・奥津姫神(おきつひめのかみ)の兄妹です。

 

仁保姫神社に残っている古文書に次のように載っています。
・由緒
「当島は広島南方海上の小島にして東は金輪島、仁保島に対し北に遠く江波島を望み南には似島を扣 (ひか)へて村民ことごとく海上に生活の道を求む 依って海上の平穏と航海の安全を祈願する為享保2年を堂宇を建って住吉神を歓請し深く尊崇し奉る」

以来幾久しく海の男達は,ひたすら崇神の心深く一度船を港に繋げば先つこの神社に拍手を打って無事返郷を感謝してから観音院へ上がり宝前に願いて御利益を拝謝してから後我が家へ入るを例とした、と伝へられています。

 
例祭(夏越祭)は毎年陰暦6月29日に定めてあり,古くは島の者は仕事を休み夕方は早く片付けて子どものある家は絵を買って与え,これに火を入れて一族揃って参拝するのが通例でした。当日社頭では若連中が笛太鼓で囃し、獅子を舞って村中を廻るなどしてお祭り気分を盛り上げていたそうです。7月10日ころ町内を回っていた獅子舞は明治末期で絶えてしまいました。

 
明治初期に例祭を陽暦日に行うことに変更して実施したところ,その夜中に原因不明の火災が起こり神殿を焼失し大騒動を起こしたことがあったそうです。当時の長老たちは大きな衝撃と恐怖を受け「これは陽暦日にお祭りすることは神意に副(そ)わないので、このような結果になったのであろう」ということで、翌年から又元の陰暦日に戻して行うようになったと伝えられ一時は陰暦日に戻したようですが,現在は再び陽暦日に戻され7月末に行われています。茅の輪だけは陰暦に設置されるのはこうした言い伝えによるのかもしれません。

神殿は明治期に建替えて防火に備え,屋根を銅版葺きにしたとのことです。
拝殿は大正年間に新たに建替えたものです。

常夜灯は社の上の崖に建てられていたものを現在の位置へ下ろしています。
狛犬と鳥居は、元々宇品造船内の大山神社にあったものを造船所廃止に伴いこちらに移設しました。

神社前には水路がありますが、この水路には砂浜に降りるための階段がいくつか設置されています。水路は元の海岸線の名残りですが,旧道で山と海岸が唯一接するのがこの住吉神社のある鼻です。これより北側の地区を江村(えんま)南側の地区を新屋と呼んでいました。

雁木とは雁が飛ぶ姿から段になった状態を指す言葉らしいのですが、広島では河岸や港湾施設で荷物の積み下ろし,人の乗降のための階段を指すことが多いですね。神社前の階段は船が接岸できるのではないので,それとは違うと思われます。

アース・ミュージアム元宇品 自然観察ガイドの会    
坂谷 晃