宇品島とその森の歴史

宇品島は、広島市の南に位置する周囲約3km、標高52mの小島です。江戸時代の初頭は現在の広島市南区の大半は安芸郡仁保島村でした。仁保島から眺めたようすが牛が寝たように観られることから「ウシネ」と稱されることになり,これが転じて「ウジナ」となったと伝えられています。 

明治になり,宇品島北側が干拓され,明治22年干拓により誕生した宇品新開が広島市に編入される際に宇品と称されました。この後,仁保村宇品島は向宇品(むこうじな)と呼ばれ,この名称は昭和の中頃まで使用されます。明治37年に宇品島が広島市に編入される際,頭に元の字を冠して元宇品町とされました。 

 宇品島の住民は仁保島村の古い資料に3戸と記載があるようですが,永禄3(1560)年ころだと言われています。その後,近江の国,坂本に住み足利将軍の家臣であった坂本宗味という武将が毛利氏に召し抱えられ,1601年ころ仁保島から宇品島に移り住み,その子孫たちが江戸時代に倉庫,海運等の海上流通業を営んだことにより島は発展します。 

 人が住むまでは,島の樹木は生い茂り原生林といえたかもしれません。しかし,島は明治になるまでは離れ小島であったため,人が住みだしてからは,ほとんど自給自足が中心であったでしょう。当時は建築や造船の材料,エネルギーの中心は木材であり,多くの島内の木材が使用されるようになったと推察されます。江戸時代の芸藩通史には、島の東側に2つの港と 40戸ほどの集落があったと記されており,日々の生活のため,島の森林は荒廃したと思われます。それでは災害や飲料水にも影響を及ぼすことから,島民の間で不要な樹木の伐採は禁止する「おきて」が出来上がったようです。また,広島藩では島内に船の管理場所,通行税の徴収役所を設置し,同時に元宇品の森林を藩有林とし、樹木の伐採を禁じました。 

しかし,藩の管理のなくなった明治維新後,明治8年には厳島神社鳥居修理のため,宇品島から大量のクスノキが切り出され,島全体は松林化します。また,宇品港は廣島の重要な港となっていきますが,廣島都市の発展のため宇品の干拓(宇品築港)が行われ,明治 26(1893)年に宇品島は陸続きとなります。そのころ島の南側には,造船・鉄工・木材等の作業場が設置され,山の上にも南端信号塔が設置されます。翌明治27(1894)年、日清戦争が始まり,以後50年間日本は戦争を続けます。宇品島にも陸軍施設や埋立地に船舶工場が増えていき,徐々に山から樹木が減少します。 

この保護のため,明治35年,22ヘクタールが国有林に編入されています。 

明治42年ころ、当時,森林、公園の第一人者であった本多清六博士がこの島の森を発見して,一躍古代原始林として脚光をあびることになり,宇品島の森を原生林と表現するようになりました。 

 大正の時代には,島の西部がリゾート開発され,水族館,プール,宿泊施設,遊園地,海水浴場などが設置されます。先の大戦前には島の稜線沿いに独立高射砲部隊の高射砲陣地が設置され,この陣地を外部から遮蔽するためだけに残された樹木以外はすべて山の木は伐採されます。終戦年には島の東部と西部から大本営の地下要塞が構築され,島は戦術的に重要な場所となります。終戦後も,食糧難から残されていた樹木も急傾斜地以外はすべて切り倒され,段々畑の山に変貌しました。 

 しかし,奇跡の山はそこから数年でクスノキやタブノキなどの照葉樹が繁り,昭和25(1950)年に(アラカシやコジイなどの保護のため)瀬戸内海国立公園特別地域に指定されました。現在では極相に達し,貴重な植物も多く観られ,はげ山から復活したので,原生林とは言えませんが,その面影を残す森林として市民からは親しまれています。 

アース・ミュージアム元宇品 自然観察ガイドの会
坂谷 晃