向宇品高射砲陣地

向宇品高射砲陣地 

昭和16年7月日米の開戦に先立ち,広島防空隊として高射砲4個中隊を中心とする部隊が配備されました。場所は二葉山(仏舎利塔),観音( Balcom BMW 広島総合グラウンド)、向洋(洋光台)の3ヶ所そして,宇品島が高射砲座4基+機銃座4基の中隊定数増量前の構成であることからこの4か所に設置されたと思われます。 

昭和20年8月8日のアメリカ軍の航空写真(国土地理院:5M220-108E, 5M220-1081)

昭和20年終戦当時には高射砲の専門部隊「独立高射砲第22大隊」大隊本部が配置されています。 

島北部(水源地跡 
東側(現在は善徳寺樹心庵)には大隊本部の隊舎と思われる建物が見られます。この建物は昭和25年にそれまで島の平地にあった元宇品小学校を山頂に移転するため,新しく校舎として建て替えが行われています。 

水源地施設の南側にサークルが確認できますが,見張り場か探照灯が設置されていたと思われます。 その北側の建物は指揮所,最北端は排水施設や便器等が残されていることから兵舎だったのではないでしょうか。 

軍道 
水源地跡の西側,中の谷の尾根筋には軍道がそのままの状態で残されています。 

水源地跡の西側
中の谷の尾根筋

   

島中央部(赤とんぼ広場) 

中央部には6門,周囲には隊舎がそれぞれ設置されています。 

アベマキの大木の北側Aにコンクリートの台座が遺されていますが,これは16年当初に4基編成であった時のもので,この一基は後に廃止されて,C・D・Eの3基を増設したのではないかと言われています。 

砲座Cと砲座上部の高射砲を接続するアンカーボルト跡です。 

砲座Dの弾薬置場コンクリート片

砲座Eの砲弾置き場と土塁壁の後です。 

写真ではこの砲座の北側には兵舎が撮影されていますが,この兵舎北側からつづら折りに下ると小中谷へ降りることができます。小中谷では陣地設営の際に大規模な立ち退きが行われたこと,谷の北東には陣地で使用した井戸もあるので,この通路が砲台陣地への主要な道路であったことが考えられます。 

また,小中谷の中腹から高射砲陣地下に展開された地下壕への出入り口もあったらしいので,陣地下の地下壕は高射砲陣地と密接な関係があったことが想像できます。 

赤とんぼ広場の西側,南側の谷や東側の尾根には兵舎の遺構が見られます。山の一段下で射撃の邪魔にならず,尚且つ樹木によってカモフラージュできるよう設営されています。 

この6基の砲台には八八式七糎野戦高射砲が配備されます。 

八八式七糎野戦高射砲(参考)

高射砲は市街地を攻撃する航空機に対して攻撃するための大砲です。12名で操作します。 
口径 75mm 最大射程 13,800m 
砲身長 3.212m(42.8口径) 最大射高 9,100m 
重量(放列砲車) 2,450kg 最大発射速度 15~20発/分 

島南部(ひこばえの丘

島南部のひこばえの丘付近には4門の機銃台座が設置された跡が確認できます。 
記録によっては中央部の6基以外にも高射砲があったような記載もあったことから,こちらも高射砲の台座と考えていましたが,機銃4基も向宇品陣地には設置されたようですので,こちらがそのあとであると思われます。この周囲は樟が谷と呼ばれていたように樹齢70年のクスの大木がすべて刈り取られはげ山になってしまいました。 

戦時中,戦後にも宇品島は天皇陛下のお言葉のため緑は守られてきたとの見解もあります。実際は高射砲陣地の設営のため大木を切り出し,切り出した木材は莫大な広さの地下壕の坑木として使用されたのです。残された樹木は自然保護のためではなく,施設の秘密を守るため,目立たぬように余分な木は切らなかっただけのことだと推察されます。 

戦後の食糧難のため山の平坦地はすべて畑になり,残された木々も製塩の際の燃料として使用され,宇品島は本当のはげ山になってしまいました。 

アース・ミュージアム元宇品 自然観察ガイドの会
坂谷 晃