アーティスティック宇品島【氏名帰帆】
文芸,美術,音楽,映画などの芸術に表された宇品島(元宇品)のようすについて紹介する「アーティスティック宇品島」第2回は前回同様,江戸時代前期の儒学者林鵞峰 による漢詩「氏名帰帆」(うじなきはん)です。
丈山の時と同様に秋田の書家竹村天祐さんにお願いして書いていただきました。鵞峰の書は発見できないため,残念ですが参考にするものがありませんでした。
氏名帰帆
渺々たる 氏名島(うじなじま),
柴門(さいもん) 半ば扉を掩(おお)う。
竿推し 斜照去り,
帆伴い 晩潮に飛ぶ。
水に煙る宇品島,
質素な家々ももう門を閉じる時分。
釣り竿を照らしていた夕日も沈んだ,
帆をあげて急いで帰るとしよう。
鵞峰は林羅山の3男で父の後を継いで江戸幕府に仕えます。 それ以前の時期に広島を訪れたと思われますが,宇品にいつごろ来訪したのかは,正確な記録が見当たりません。
寛永20年(1643年)の著書『日本国事跡考』のなかで「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立、安藝嚴島爲三處奇觀」(松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす)と記し、これが現在の「日本三景」の由来となったと伝えられています。
厳島と宇品島を同時期に訪れたとすれば,寛永のころ創作した詩だと思われます。前回の丈山も鵞峰も舟で宇品島に渡りフィッシング,というのは当時の文化人が好む遊びのひとつだったのでしょうね。政治と釣りというのは,太公望のお話を思い出させます。
楽しい癒しの時間はあっという間に過ぎて,廣島に帰る時刻を遅らせたのでしょうか。夜の海は危険なため,急いで帰らなくては日が暮れそうです。
「うじな」の言葉に対して二人の文化人はそれぞれ,丈山は「宇治奈」,鵞峰は「氏名」の漢字を当てています。この後江戸期にはこの漢字を使用した行政書類が散見しますが,江戸末期の広島藩の港に関する書類には「宇品」が使用されるようになり,1806年5月9日伊能忠敬の測量では「宇品嶋」の文字が観られます。
いつからなぜ宇品という漢字を使うようになったかは未だ不明です。
引用文献
仁保村役場「仁保村史」 昭和4年
伊能忠敬と伊能図百科事典(Ino Pedia)
アース・ミュージアム元宇品 自然観察ガイドの会
坂谷 晃