暁橋のおはなし 

1 宇品築港(明治22年まで) 

暁橋の架かるこの海域は以前は小深湊と呼ばれる良港でした。宇品島周囲が平均3.4mの深さしかないことに比べこの海域は6mの水深がありました。 

このため,築港の際に接岸桟橋を設置するにあたり宇品島の北側が選ばれました。当初は宇品島から北へ向けて桟橋を設置する計画があったようですが,鉄道との輸送効率を考慮したのでしょう,最終的に宇品南端から桟橋を設置することになったようです。 

宇品築港意見書付図 明治17年1月 (地図上方が南)

 

宇品島から桟橋を設営しないのであれば島への連絡道路も必要なく,水深のあるこの場所を莫大な資金や労力を費やして埋め立て,宇品地区と宇品島を陸続きにする必要はありません。しかし,広島湾は冬季に西から吹く風が非常に激しく,この海域での激浪に桟橋や港湾設備が耐えられないことや,京橋川,元安川からの土砂の流入により水深が浅くなるといった港湾機能維持の理由から,干拓の西南端と宇品島を直線的に連結することに決定したそうです。 

2 めがね橋(明治26年) 

こうして直線に伸びた海堤は約420mに及びました。堤の上面には車道を作り,宇品島の道に連結して陸路交通の便が開けたのでした。 

ところが,港が繁栄し海運業者が増えると,港の荷を西部方面へ海路で運搬するには,宇品島の南を迂回せねばならず大変な労力が必要になりました。このため海堤に水路を開いて欲しいとの要望が強くなったのです。 

眼鏡橋と船溜まり

明治26年(1983年)こうして眼鏡橋が完成しました。水路の巾は僅かに3m位でしたが港内に土砂流入を防ぐために観音開きの頑丈な扉を設け,必要に応じてこれを開閉するように設計されていました。橋の上から下をのぞくと,扉を設置してある石垣や扉の開閉が眼鏡を思わせるような形状であった所から、この名が呼ばれ始めたと伝えられています。 

水路開墾供養塔

3 暁橋(昭和17年) 
大東亜戦争戦の頃,陸軍の大型車両通行の必要から,陸軍運輸部船舶司令部(通称・暁部隊)が眼鏡橋を取り壊し水路を拡張,新たに橋を架け変えました。この際、宇品干拓に功績のあった千田貞暁の名を取り、現在の「暁橋」の名称が付けられました。 

1975年(昭和50年)に県営桟橋が完成すると,橋下の水路を通行する船は無くなりましたが,港湾内の水質問題解消のために現在もこの水路は重要なものとなっています。 

アース・ミュージアム元宇品 自然観察ガイドの会   
坂谷晃