元宇品の生きた化石【メタセコイア】

小学校の校門をくぐるとその木はありました。まっすぐな太い幹に回したロープから木の名前をカタカナで記した札がかかっています。幼い私にとって「メタセコイア」という樹名は、アブラカタブラやマハリクマハリタのような呪文のように響き強く印象に残りました。「その木は生きた化石なんだよ…」と後に理科の先生から聞きますが、何がどう、生きた化石なのかは当時の私には分かりませんでした。 

三角形の樹形が美しい4月のメタセコイア (広島市千田公園)

 

数十年が過ぎ自然観察のテーマを探していた私は、その木の名前を宇品山で耳にしました。へぇ~、ここにメタセコイアがあるんだ…この森はかつて原生林と呼ばれ、樹齢の分からない木が沢山あるけど、メタセコイアだけは大体分かる、その理由は…。 

宇品山のメタセコイア 

1939年、日本の関西地方の第三紀層で、常緑種のセコイアに似た植物遺体(化石の1種)が発見されました。発見者の三木茂(みきしげる)博士は葉と種子の違いに着目し、ヌマスギやセコイアと異なると考え、「のちの、変わった」という意味の接頭語である「メタ」をつけて「メタセコイア」と命名し、1941年に発表しました。枝の先に冬を越す芽がないので、落葉樹であることも推定しました。 

三木博士の化石標本(大阪市立自然史博物館蔵) 

1941年はアジア・太平洋戦争開戦の年です。三木博士は大急ぎで論文を作成し、ヨーロッパやアメリカなど世界中の研究者に送りました。しかし、不幸なことに戦時下のため、論文の多くは到着することなく送り返されてしまいます。戦地に赴いた三木博士はその事実を終戦まで知ることはありませんでした。 

国立科学博物館企画展のチラシ 

遠く離れた中国湖北省の山村に、土家(とうちゃ)族の神の木とされていた針葉樹の大木がありました。1941年の冬、旅行中の南京大学の森林学教授 干鐸(かんたく)は、湖北省堺に近い長江の支流域の村磨刀渓(まとうけい)の道端でその巨大な樹木を見かけました。大そう興味を持ったのですが、季節は冬で、落葉しており葉や種子の標本を得ることは出来ませんでした。 

数年後、その周辺地域の森林資源調査をすることになり、1944年夏、依頼を受けた林務官の王戦(おうせん)が現地に向かいました。高さ30m以上、直径は約3mという謎の木は水杉(スイサ)と呼ばれ大切にされていましたが、王にも何の木か断定できず、葉のついた枝と果実を採集しました。そして、この標本が南京大学の樹木学の教授である鄭万鈞(ていまんきん)に届けられたのです。鄭はさらに花と若い果実の標本も手に入れました。 

メタセコイアの小葉は対生(セコイアは互生)になっています。(広島市千田公園)

   

 

化石のプレパラート標本(大阪市立自然史博物館蔵)

 

1946年、鄭教授は北京の静生生物研究所の胡先驌(こせんき)博士に標本を送り、自分の意見をつけて鑑定を求めました。胡先驌博士はハーバード大学出身で中国植物学会の会長でもあります。未知の針葉樹の標本を見た胡博士は、これは日本の三木博士が化石標本から発見して、メタセコイアと命名したものではないだろうか…100万年前に絶滅したと思われていた樹木が中国の奥地で生き残っていたということではないだろうか…と考えたのです。 

現世種最古のメタセコイア 湖北省磨刀渓で1988.6.8撮影 根元に三木茂博士夫人民子さんが立っています。 

ヨーロッパやアメリカには届かなかった三木博士の論文ですが、日本から近い一部の地域には届いていました。論文は、幸運にも北京の静生生物研究所の胡博士の手に渡っていたのです。三木博士は満州の植物調査をしたこともあり、胡博士とも面識がありました。胡博士は1946年、メタセコイアについて第1報を発表するとともに、カリフォルニア大学の古生物学者チェイニー博士や胡博士の恩師でもあるハーバード大学のメリル博士にも知らせました。1948年1月、種子がアメリカに届き、3月にはチェイニー博士とメリル博士が中国の現地を訪れて種子を採集しました。メタセコイア原生種は1948年、胡会長と鄭博士の連名で新種として正式に発表されました。 

赤味がかった樹皮は幾筋か縦に裂けます。(宇品山) 
元宇品は花こう岩の島で土壌が薄いせいか、根はしばしば地表を這っています。 

メタセコイアの日本への渡来は1948年(昭和23)にメリル博士から送られた種子が翌年発芽したものが初めてとされています。1950年にチェイニー博士から100本の苗が届き、全国に配布され挿木繁殖で広がって行きました。また、この頃GHQの天然資源局が各駐屯地に苗木を配ったという話もあります。生きているメタセコイアの発見は”植物学における世紀の事件だ”などとアメリカでの反応も大きかったのです。皇居にも植えられアケボノスギとも呼ばれました。 

メタセコイアの芽吹き 2023.4.16元宇品 

日本人が化石で発見した植物が、中国奥地に現存していた!メタセコイアは生きている化石だ!というニュースは、戦後の苦しい生活の中、明るい話題として日本全国の人々を勇気づけ一大ブームとなりました。広島への移入については、広島市中区東千田町の旧広島大学キャンパスの並木が昭和27~28年ころに植栽されたもので、県内への導入としてはごく初期のものである、ということです。 

日本、中国、アメリカ・・・国どうしがお互いに敵対していた戦争の時代でも、学問の世界では、知識を共有し、連絡を取りあい、協力をしていた研究者達がいたことを知ったとき、声にならない感動が静かに湧き上がってきます。 

参考 

メタセコイア 昭和天皇の愛した木 斎藤清明著 中公新書 

国立科学博物館企画展 メタセコイア 生きている化石は語るhttps://www.kahaku.go.jp/event/2021/01metasequoia/ 

『広島県植物誌』(広島大学理学部附属宮島自然植物実験所 比婆科学教育振興会/編 中国新聞社 1997) 

北日本新聞2009年5月3日「砺波チューリップ公園 メタセコイア 花のまち見守り60年」 

アース・ミュージアム元宇品 自然観察ガイドの会
副代表 畑 久美

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