海地蔵と華厳碑
江戸時代の元宇品の町並みは東海岸からはるかに海田湾,仁保の漁村を望むことのできる湾曲した砂浜の入り江でした。海辺に一筋道(現在の元宇品郵便局から住吉神社を経て元宇品港公園へ至る通り)が通り,そこから山に向かって段々に住宅が存在したのです。この一筋道の南端,道の切れた場所からの沖合約50メートルの海中に海地蔵は建てられていました。
地蔵尊は1m角長2mもあるような巨石、大石で築き上げた台座の上に東北に向かって安置されていて大満汐時でも尊像は水没せぬ高度になっていました。そして,地蔵尊の台座の左隅の一角には自然石に「大方廣佛華嚴經」の大文字を彫った塔石が立っていました。
長い間の波の浸食や暴風のためか,塔石は倒壊して,海中に沈んでしまっていましたが,大正7(1918)年に引き上げられ観音院(現在の観音寺)に安置されました。
地蔵尊は昭和元年(1927)頃付近を埋め立て入り江を作る際,波止先に台座ごと取り込まれ陸続きとなりました。
入り江はその後埋め立てられ公園となりましたが,地蔵尊はほぼその位置に安置されています。
地蔵菩薩と言えば片手に錫杖反対の手に宝珠を持つものが一般的ですが,元宇品の地蔵菩薩は皆,坐像で両手で宝珠を持っているのが特徴です。同じ作者が作ったものか,意味あって同じデザインなのかは不明です。中国では観音・地蔵菩薩を並立させ信仰することがあったようですが,この地蔵の中には同じ所作のものが多く観られます。
いつ,なぜ海中へこれらのものを建立したのか明確な口伝も記録もないので現在でも判明していませんが,島民の生活に余裕ができ観音堂や住吉神社を建立した宝永初年から享保年間(1,703~1,720)の頃に何かの機会に建立したと推察されます。地蔵尊の付近には苔石という岩礁があり,昔から多くの船舶が座礁したと伝えられ,建立後も廃棄船をこの場所へ曳航して廃棄したことから船供養の目的もあったのではないでしょうか。碑文の華厳経の文字は龍樹(りょうじゅ)の竜宮伝説を彷彿させられます。
海地蔵は航海の安全を願い,様々な危険から船舶や乗員を救うことを祈願して,また華厳の碑は,自然災害や事故によって沈没してしまった船や命を落とした乗員が,龍樹のようにいつかは戻って来て,そして平穏に暮らしていくといった願いが込められて建立されたのかもしれません。中華様式の地蔵菩薩像やインドの伝説に基づいた信仰を取り入れるのも,この町が他の文化を受け入れやすい港町であった所以だと思います。
引用文献
小林治平「ふるさとの夢物語り」 昭和60年代
坂木道光他「元宇品の歴史」 昭和40年代
アース・ミュージアム元宇品 自然観察ガイドの会
坂谷 晃